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あなたは今まで何を為して生きてきましたか?

2018.8.28

前回は、「高齢者とお寺の関わり方」についてお話させていただきました。今回はその続きで「誰かのために何かを為し得たか」という、積極的な生き方についてお話いたします。

自主的・積極的な生き方とは何か

「あなたは今まで何を為して生きてきましたか?」
この問いに答えることができるでしょうか。

ここで、明確な答えが出てこなければならないと思います。そうであってこそ、人は初めて自主的・積極的な生き方を選んで進んでいくことが可能だからです。

ここで「選んで」と言いましたが、人は自らの人生を選び取っていくことができます
自分の為だけに生きるのか、誰かの為に生きたいのか、もしくは何も考えていないのか。
何も考えていない、というのもひとつの選択肢です。しかしながら、そんな選択肢はむなしいと思いませんか?なりゆきにまかせる……それも時として必要でしょうが、すべて他人まかせとなるとどうでしょう。
たとえば病院でこんなことを言うことはありませんか。
「お医者さんは専門家ですし、正しいと思いますので、治療についてはすべておまかせいたします」
しかしながら、専門家なので正しい情報は持っているかもしれませんが、判断まで正しいとは限らないわけです。
あとで後悔しないためにも、自分の事は自分で道筋をつけていかないといけない。自主的・積極的な生き方というのは、そういうことだろうと思います。

身のまわりの人達が幸せでなければ、自分の幸せなどありえない

それを前提として、では次に、自分の為になることを積極的にやっていくのか、他人の為になることをもっとやっていくのか、という話をしてまいります。

仏教が説いているのは、「人は他人との関わりによって成り立っているわけで、決して自分だけで成り立っているわけではない」ということです。
そうすると、まず自分の身のまわりの人達が幸せでなければ、自分の幸せなどありえないということになります。仏の教えというのは、「自分の幸せの前に、まず相手方の幸せを考えて行動しなさい」というものなのです。

ですから、行動を起こさないとならないわけです。しかも、他人の為と言っても、否、他人の為であるがゆえに、行動の裏にある心持ちが必ずしも気持ちの良いことばかりとは限りません。気持ちよくやれることはむしろ少しで、不愉快であったり腹立たしい事の方が多いのではないでしょうか。それが人間社会の掟といっても言い過ぎではないでしょう。
しかし、「それでも実践していきなさい」と教えているわけです。「耐え忍んで実行に移しなさい」と。だから私達の住んでいる世界を「忍土」というのです。我々人間は、この世界で耐え忍んで生きていかなければならない存在である、と。
ですから世の中のすばらしい人というのは、人間関係が何より難しい問題だとしても、どんな状況であれ、へこたれず耐え忍んでこつこつやっていく人だろうと思います。彼らは、他人が幸せになるように、そして世の中が少しでもよくなるように願いを込めて、自分のやるべきことをこつこつやっている。そのように願いを込めることで、実際の行動が世の中の人の為に自ずとなっていくわけですね。

仏教ではそういう人を「菩薩」といっているのです。
そんなすばらしい働きをする人を、仏の教えを共に学び実践していくことで排出していく……そういう場が寺であろうと思います。
そしてまた、学んで実践していくのに年齢など関係なく、やりたいと思う気持ちがあれば誰でも参加することができる。私は、寺としてそういう場であり続けたいと願っています。

ではそんな寺で、高齢者の方は具体的にどういうことができるのでしょうか?
次回は、寺における高齢者の方の具体的な実践についてお話をしたいと思います。