BLOG 興聖寺座禅ブログ

坐禅のすすめ

2024.2.15

~坐禅はどうして良いのだろうか? 私と坐禅~

 今、興聖寺では坐禅に特に力を入れております。それはどうしてかといいますと、人間にとってかけがえのないものを与えてくれるからです。

 白隠禅師の坐禅和賛には最初に衆生本来仏なりと書かれています。これはどういうことなんだろうかと数十年考えて参りました。私なりに今思うことは、私たち生きものは無限の中に生きているというのを意味しているものと思っております。

 無限の中に生きているというのは実に心持良いものです。終わりも、完成もないということがどれだけ私を安らいだ気持ちにさせてくれるかと思うのです。坐禅をしていると無限のかなたに埋没させてくれる心境になることがあります。全体性の把握とかインスピレーション(直観力)はそこからやってくるように思うのです。今、現代人はあまりに部分的なところから細かくスポットをあてて見ていったり分析している方にウェイトが置かれすぎているように思うのです。例えば食べ物一つとっても、必ずこの栄養素は人間にとって必要なものだからこれとこれをこれだけ摂る必要がある、これ以上摂ると過剰摂取になる、とか。そういう風に、食事による栄養素の摂取と人間の健康の維持とか一つ一つの要素を部分で捉えていくのが得意なのではないかしらと思うことがあります。

 本当は食事だけでなく睡眠、休息や空気、水、山の霊気・エネルギー、太陽の力、植物の力がもっと相互に補完し合って人間に影響を与えているのに、それも一つずつ部分で捉えていっているように思うのです。部分の集積をいくらやっても全体の把握につながらないのに、それをやろうとするのは、人間があまりに言葉の力を使った意識の働かせ方に重点をもっていき過ぎたからとも言えるのではないでしょうか。

 最近というよりも一昔前から、西洋の人々が東洋の思想だとか仏教に関心を持つようになったと聞きます。その原因として、部分で捉えていくという思考プロセスのあり方に限界・いきづまりを感じているということも挙げられるのではないでしょうか。

 勿論ここでいう部分とは、色々な意味が込められていて。私達が共通して感じ取ることができるもの、認識できるもの、そういうものを文字化したり、図式化したりして形にしていったものも部分といえるのです。

 ですからイデオロギーも常識も、教養体系をもった宗教も哲学もみんな部分だと思うのです。部分を見過ぎた、捉え過ぎたと思うのです。だからいきづまるのです。世界は今いきづまっていると感じます。

 私が人と接すると疲れを覚えるのももしかするとこんなところに原因があるのかも。そう思ったりもします。勿論、人に気をつかっているというところにも原因はありそうですが、それだけではなく人と接すると知らず知らずのうちに常識だとか観念といった嫌気がさすものと向き合わざるを得ない。疲れはそこから自分を守るために防御するという働きなのかもしれません。一人になるというのはすごく落ち着きます。今、私と同じような感覚を持っている人は沢山いるのではないでしょうか。引きこもりという現象もパターンは色々ありそうですが、このような原因も一つとして挙げられるかもしれません。そしてそのような行動をとるのも、健全な心の働きとも言えるのではないでしょうか。

 勿論、常識とか自然科学とか、普通の私達が捉えることのできる認識できる世界の構築は私達の生活上、必要不可々なものだと思います。ただ私達人間はその世界のみで生存すればよい生き物ではないように思うのです。そういう意味で私達人間は良くできたものだと思います。良くできた存在なのですから十二分に生きなければいただいた生命(いのち)に申し訳ないと思うのです。

 そして全体の回帰といっても何も真新しいことをするわけでもなく、私達の祖先が古来から行ってきた精神修養というあり方だと思うのです。山の宗教であったり、禅であったり、密数であったり。

 勿論そのあり方だって皆が皆行ってきたわけではありません。なぜなら、そういう精神修養というのは本気になってやろうと思ったら、とても難しいことなのですから。しかしながら、昔の人がもっとそういうものを大切にしてきたのではないかと思う時があります。科学的知識が増えたり、生活が便利になったら、そういうものがおろそかになったり、あるいは滅してしまうとしたら、それはおかしなことだと思います。逆に偏り過ぎて、昔からやっていたことが恋しくなってきたのではないでしようか。しかも、そのことに気がついてきたのが、日本人ではなく異国の地の西洋の人々がと感じているのは私だけでしょうか。日本人はこの先どこへ行くのだろうかという大きな問題もありますが、ポーダーレスの時代、日本人でなくても、人がそのことに気がついてきたということは素晴らしいことだと思うのです。

 白隠禅師の来生本来仏なりに話を戻します。

 私達は無限の世界に生きている。あるいは私達は無限の世界そのもの、無限のいのちそのもの。そのことは私達は未知なる世界に生きる存在あるいは私達のいのちは未知なるいのちそのもの。ちょっと難しい言い方になってしまったかもしれません。それではもっと簡単にしましょうか。「君のいのちかい?君のいのちは君のいのちそのまんまだよ。そのまんまでいいんだよ。だけどちょっとは神修養しなさいね(笑)」

 さらにもっと簡単にしましょうか。「いのち(命)って何だい?命ってそのものは見えないんだよ。だからわからなくなっても心配することないんだよ。けれども命は君が今生きている(という働き)現実からふれることができるんだよ。今生きているってどういうこと?今生きているっていうのは今君が失恋して悲しくて死んでしまいたいと思ったり、飯食ったり、大小便したり、横になって寝るということだよ。そのまんま。素直にそのまんまだよ。けれどもたまには坐禅くらいはしろよな(笑)」

 現代人は本来未知なる世界だけれども、あんまりにも知り過ぎてしまって、本当はほとんど何も知ってはいないのにほとんど知られてきたとか過信してしまって、世界を誤って認識してしまっているのではないか。これを顛倒夢想(さかさまに見ている)と般若心経ではいうのですが、顛倒夢想からいきづまってしまっているのではないか。そんなふうに感じられるのです。

 未知なる世界、つまりは無限なる世界(終わりも完成もない世界)に我ありという感覚が私に安心感を与えてくれるのはおそらく私には発展があったり伸びしろがあったり、努力によってよい方向に進むということを感じるからだろうと思うのです。

 だから、現実的に衆生本来仏なりとは何か完成された人格が自らに内在されているとかそういうことではなくて、自分はいつでもいつまでも発展して成長していくことのできる存在なのだと、そういうふうに解釈しております。私は抽象的な議論や解釈が好きではありません。肝心なことは、本を読経典を読む、その中で、自分がどう感じ取ってどう思ったのか、そこだと思うのです。

 さて、いよいよ本筋へ話を進めましょう。

 坐禅。坐禅のどこが良いのか。どこが素晴らしいのだろうか。坐禅ですか?坐禅をやっていると心地良くなるものですから。いいえ、私にとってそういうことではないのです。「衆生本来仏なり」

 私には私は無限の中に生きている、私は発展・成長する存在、発展・成長できる存在であるという信念があります。その信念と坐禅をしていてたまにちらつく日常の意識世界と違う意識の働きの世界。その世界への突入・発見・出会いとが結びつくのです。つまり、その世界の引き出しが私の発展・成長と大いに結びつくのです。それはなぜかと言われても困るのですが、そのように直感が働くのです。その世界の事はうまく説明することが難しいのですが、例えば精神的なる発光現象とでも言ったら良いのでしょうか。照明とかろうそくの炎が網膜を通ってとかそういう物理的な発光ではなくて、またイメージで作り出されたものでもなくて、そうではない日常的に表立って活動していない意識の働きによって作り出されたと言ったら良いのか、まあ、そういう精神的に作り出された光。そういうことを感知することがあります。これは死の直前まで行った人が回復覚醒した時に語った体験あるいはビジョンとして多々報告されていることですが、その意識の働きと坐禅の時の意識の働きが同じか、違うものかどうかということは私にはわかりませんが、とにかく、日常の意識の働きとは異なる働きであることは覚知することができます。そしてこの意識の働きは様々なやり方でひきだすことができることも認識していますが、私はそのやり方の一つとして、同音の発音の繰り返しとその集中というあり方を皆さんに教えさせていただいています。特に私一人で坐禅する時には良く好んで光明真言を唱えています。ただ始めて坐禅をする人は余程の天性の素質でも持っていない限りそんな簡単には光はでてこないと思います。

 ここに努力と習練のたまものという醍醐味があるのだと思います。光もその時々によって形状と色も多彩です。その時の意識状態はとても安定していて静かです。この静けさによって心の深い世界に入っていく坐禅ですが、始めてみようとその始まりがあったとしても、その終わりはないと思うのです。なぜならばいのちが無限であるならば、その働きとしての意識というのも無限であるということになると思うからです。何か精神的発光なる現象が起きたからとか、心にある閃きが起こったとか、そういうことで終了ということではないと思うのです。お釈迦様のお悟りはどこまでも広くて深いもの。そう思うのです。ですからお釈迦様のお悟りをどこまでも追求していきたいのです。こういう自らの深いまだ知られていない心の世界の探求・開拓という心の営みは、自分の為だけではなくて周囲の人々の為にもなるとても良いことだと思うのです。

 それは身近の例で言うならば、自分の家の周り、町をそうじして近所の人に「おはようございます」とか「行ってらっしゃい」とか、声かけをすることが自分も気持ち良く過ごせて嬉しくなるし、町のみんなも気持ちが良くなって嬉しくなるのと同じことだと思うのです。ただただ声が相手に伝わったとか、見えているかどうかで、皆の為になっているかいないのかではなく、見えない、心の世界の働きはものすごく周囲にも影響を与えていると思うのです。そうして遠いけれども、その先には戦争のない真に平和な世界の実現というもっと今よりもすばらしい世界が開けてくると思うのです。そういう、心の求め方、あり様といったものが、部分で見ていくというあり方だけではなく全体を見る・把握する・全体性に回帰するというあり方だと思うのです。いわば現代人は、木を見て森を見ずという状態に陥ってしまっているのではないか。そこから世界的規模での諸問題が発生しているのではないか。木も見て森もとらえているという生き方ができればどれだけ心の重荷から解放されて、諸間題が解決されていくだろうか。そのように感じております。そして、森を見ると言ったって、何も目新しいことをするのではなく、昔から行われてきたあり方・やり方で昔の人がつけてくれた道を踏んでいくだけ、坐禅もそういう位置づけになるはずと思っております。このことが私が一番大切に思っていることです。

 次に、私がなぜ興聖寺一切経の保全活動に力を入れているかお話したいと思います。

 その前に、今、現代の人々の心の不安が大きくなっていることを感じます。その最大の原因がどこにあるのか見極めるに、寄り添ってくれる人が誰もいないことにあると感じております。まったくの孤独状態です。これは最悪な状況です。誰か一人でも寄り添ってくれる人がいれば事態は全く異なります。明るい希望の光が差してきます。暗黒の世界にずっといれば人は死を考えるようになります。そういうはかない存在が人だと思うのです。

 ところで話を最初の興聖寺一切経に戻します。一切経とはあらゆるお経の総称をいいます。興聖寺ではほぼ欠本のない状態であらゆるお経五千三百巻近くの経典群を保持しています。しかもこの経典群は平安院政期の頃の写本ですから今からおよそ八百五十年前に書かれたものです。版本もたまに混ざっていますが、ほぼ人の手によって書写された経本です。当時の状況は、奈良時代には大陸、唐から入ってきたお経をさらに書写する一切経書写に大変力を入れていました。それだけ写経には功徳力があると信じられていました。ただ平安時代になると写経は下火になり、代わって呪術的要素の強い密教が盛んになってきます。その後院政期頃に再び一切経青写が盛んになってきます。その頃、勧進僧という役割を果たす僧侶がおりました。この勧進僧とはなにかといったら、人々に仏縁ができるよう、また、作善(善い行いをすること)を勧める為、特に最高の作善といわれた一切経の書写に人々が参加できるように働きかけを行った僧侶達のことをいいます。私はこの勧進僧が、現代でいうならば孤独にならないように寄り添う役割を果たしていたのではないかと思うのです。

 勿論、今と平安時代では状況がまるで違うでしょうから当時は当時の勧進僧のあり方があったのでしょうが、それを現代におきかえて考えてみるとどうもそういう役割を担っていたということになりはしないだろうか。そのように私は考えております。

 人に寄り添うというのはなかなか深い意味合いがあろうかと思うのです。初歩的なものとは何かと言ったら生身の人間がそばにいてあげるだけ、ただそれだけで全然違うと思うのです。「おばあちゃん、心配しないでね、僕がついていてあげるから」と、これだけでもう一人ぼっちと雲泥の差だろうと思うのです。

 では高度なものとは何でしょう?私はそれが仰だと思うのです。仰とはただ単純に言じるとかそういうものではなく、自らの心を養っていくことだと思うのです。私は自らの心を養っていきたいと思っています。その養ったあげくにどこまでやってきたかといえば、”私はただ一点現在にあるのではなく、未来からやってきた存在である”

 こういう感覚は一般の人にはわからないと思うのです。ましてや私という存在をほんのわずか表面的に捉えている人には。”私”という捉え方にまったくの開きがあるだろうと思っています。ではさらにどういうことなのかをお話したいと思います。

 今私はお経の裏に書かれている書写した人の名前を見ていたとします。この方は薬師寺の坊さんでこんな字を書く人だったのか、あるいは名もない人達女性や子供、この人達は今、私によって見られた知られた、敬意の念を抱かれた。それは今という時であるけれど、この方達にとって私という存在は死後八百五十年後に現れた存在であって、この人たちと私には直接の接点はないのだろうか。本当に直接の関係性はなかったのだろうか。

 私はそう思わないのです。つまり、私はこの人達のいた頃から八百五十年後の人だけれども、実はこの人達のところに、あるいはこの人達とともに私なるものはいた。これと同じように、私のしたこと、私の感じ取ったことを何か記録に残せば未来の人は見てくれるかもしれないが、未来において私のことを知ってくれる関係性にすぎないのだろうか。私はそういうふうに思っていないのです。

 私はこのように思っております。つまりは未来におけるその人・その人達は実は今の私のところにいるのだと。これは理屈や論理ではないのです。この感覚をもって私はこれを信仰と名付けます。

 では今確かにいる私と未来のその人・その人達は同一なのか私なのか何者なのか。私はこのように答えます。「わかりません」。なぜならば私は人なのですから。あるいは私はまだ人なのですから。ただこの感覚はあるのです。私は未来からやってきたという。この信仰的感覚が高度の寄り添いだと思っています。

 最近のことですが、私は坐禅をするとき弥勒さん(興聖寺本堂内に安置された菩薩)の一番近くに坐っているのですが、弥勒さんの前で考えていたことがあったのです。何を考えていたかというと、空海さんや最澄さんは偉かったなぁ。宗教的天才だったけれどそれ以外に二人とも天皇さんと直接関係性をもって、時の最高権力者と強いパイプを築くことで当時の仏教界を大きく変えていこうとするという、先を読む力や行動力や計画性は常人にはとてもまねすることのできない能力だな。それに対し、私といったらそんな能力もないし、とてもお二人のされたことなんてできるわけないなと自分の非力さを嘆いておりました。そうしたら弥勒さんは間髪いれずにしかもあっさりと「いいんじゃないか、別にしなくても」とおっしゃるのです。そうしたら私、軽くなった気持ちになって、弥勒さんに言いました。「ありがとうございます」と(笑)。

 大切なことは、一本の見えない糸で私と大いなるものが繋がっていてそれを感じる力だと思うのです。こういう感じる力は即席で獲得されるものではなく、徐々に養われていくものだと思うのです。そこに修行の尊さがあるのではないかと思います。そして大切なことですが、一切経という見える形あるものが一つの媒体となって、私と目に見えない偉大なるものが見えない一糸で繋がっている。そして一糸はとてもとても太いもので過去の仏教を信仰した数えきれない人々であり、これから未来にかけて現れる賢く俺大なる仏教の信仰者達。それらの人々は私と共にある。この思いはとても強い安心感なのですね。さらには私という存在は未来と繋がっていて、そこの世界から私なるものはやってきたという感覚は最高の寄り添いとなって私を幸せにしてくれるのです。

 つまり、私は無限の存在である。その無限を見える形として宿したものがお経であり、そのお経というものに携わるということが私をより無限なるものに向かわせる。そのように感じております。

 ですから、お経に携わるということでは最高峰である一切経の書写であり、その一切経を保全して大切にしていくという営みは人間にとってとても大切なことであり、幸せなことだと思うのです。ですから興聖寺の一切経を守って後世に伝える活動を特に大切にさせていただいているわけです。

 今の時代、まず生身の人による寄り添い、さらにはその先にある偉大なるものの寄り添いというものがとても大助になってくるのではないですか、ということです。

 このような思いの蓄積が果たせるようになったのも、やはり棚があったからではないでしょうか。どこまで修行しても続いていく。無限であるというのはとてもワクワクすることでもあります。行が楽しいというのは、行は楽しんでしないとというのは、そういうことではないでしょうか。

あとがき

 鍛錬によって、自らの心の奥深い世界に入っていくということはとても魅力のあることだと思います。私はブッダの高度の智慧というところからブッダに対する並々ならぬ憧れを抱きました。そうして坐禅というものかどういうものか追い求めてきました。そういう純粋なるものを追い求める人に出会ってみたいという気持ちが強いです。

 最近では禅寺修行會という一般の人向けのプログラムも始めました。この寺の住職となって早八年たちましたが、ようやく本格的な坐禅の活動が始まるという感があります。本気度の高い人達に出会いたいと切に願っております。私もちょうど五十才になりました。体力もあり、ちょうど盛んに行うことができる良いチャンスだと思っております。さらなる坐禅の追求と一切経の欠本の書写を、日々細々とですが続けていきたいと思っております。

2023年11月12日 

興聖寺住職 望月宏済